鄭用錫墓地

*鄭用錫墓地
*国定遺跡
*新竹市明湖路243巷軍人公墓内
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歴史と変遷
  1858年(咸豊8年)、鄭用錫が亡くなると、翌年香山に葬られ、1869年(同治8年)に竹仔坑の現在の場所に改葬されました。鄭は生前に従二品の官位を持っていたため、その墓地の規模は大きく、造作も凝ったものとなっています。墓地全体は北西に向いており、墓の形式は二品官にふさわしく、「三曲手」と呼ばれる規模で、墓前に石像が並び、墓地を広く、荘厳に見せています。石像は人や獣で、墳墓を護衛すると同時に、死者の武功と尊厳を讃えるものです。石像の種類や数によって官位がわかるのも官墓の特色の一つです。
 
  墓も一種の建築です。「開台進士」である鄭用錫は新竹の発展に貢献した人物であるため、その墓も整ったもので、精巧な彫刻が施され、新竹の重要な文化資産となっています。この墓は内政部により第二級古蹟に定められ、近年修復がすべて完了し、遺失した石虎と頭のとれた石羊もすべて修復されていますので、是非、見学をお勧めします。
 
建物の特色
  墓は風水では「陰宅」、すなわち死者が死後住む場所と言われています。中国人は、風水は子子孫孫に影響を与えるものと信じているため、埋葬の習慣や墓地の風水を非常に重視します。一般的には、漢人の墓は風水を考慮して、山を背後に水を前にし、左右の環境も有利な場所を選びます。また墓となる塚の形も風水の影響で楕円形の包布を象ったものとなっています。
 
  墓の中心にあるのは墓碑ですが、後の墓穴のある場所は小高い丘になっており、亀の背のような形になっているため、「墓亀」と呼ばれます。墓亀の周囲には、排水溝が設けられ、その後方が墓になっています。墓碑の前には、供え物を置く台があります。墓の前方両側には椅子の肘掛けに似た「曲手」が、外に向かって伸び、包布の形になっています。これには風水に従って「風を蓄え気を集める」という目的があります。墓の前方には平坦な「明堂」、すなわち子孫が拝礼を行う場所が設けられています。この規模も墓の規模に比例して、内明堂と外明堂に分けるほど大規模なものもあります。これらもやはり風水の考え方です。墓地の横には「后土」と呼ばれる石碑がありますが、これは墓地を守り、道案内となる地蔵で、先祖を祭る前にまずこの「后土」を拝み、祖先を守ってくれていることに感謝を捧げます。
 
  鄭用錫の墓は楕円形です。墓碑は兜を象った半円形になっており、三枚の花崗石を組み合わせたもので、「浯江」の豪族であったことを記す文字が刻まれています。左右には神話の怪獣を二匹あしらった紋章がついており、碑文には「清賜進士出身賞戴花翎礼部副郎晉封通奉大夫祉亭顯考鄭公塋」とあり、その一生の功績を説明しています。「曲手」には欄干柱と柱の間の板がありますが、いずれもの花崗岩を彫ったものです。曲手欄干の柱頭は、石印、石筆、石獅に分かれていますが、左右対称となっています。墓前の石像は内から外に向かって石人、石馬、石羊、石虎、石望柱など各一対あります。いずれの彫刻も精巧、緻密で、石獣はユーモラスでさえあります。石望柱には、咸豊元年に福建・浙江総督であった王懿德が贈った言葉が刻まれており、大きな歴史的価値を持っています。山を背に、水を前にしたこの広大な墓は、天下を睥睨するかのように佇み、台湾官墓の一風景となっています。
来場者数:16343 人は、日付:2017-03-16