竹塹城迎曦門

*竹塹城迎曦門
*国定遺跡
*新竹市東門街中正路口
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歴史と変遷
  新竹はかつて竹塹と呼ばれていました。1733年(清の雍正11年)、淡水の同知(官職名)であった徐治民は、四百四十余丈の刺竹の囲いで竹塹の町を囲み、町を東・西・南・北四エリアに分け、掘割を掘って町の防御を固めました。これが竹塹の城壁整備の小さな始まりとなり、刺竹の囲いは何度もより強固な防備に取り換えられてゆきました。1806年(嘉慶11年)になると、倭寇の襲来に遭い、土壁が築かれるようになります。1811年(嘉慶16年)には政府が土壁の改修を行い、幅も高さもそれぞれ一丈増すことになりました。この時の土壁の全長は約一千四百丈、外側には再び刺竹が植えられ、さらにその外には堀が掘られ、相当規模の防御システムが完成しました。
 
  1826年(道光6年)になると、竹塹の仕紳、鄭用錫などが城壁の再整備を陳情するようになりました。早期の竹囲いは小さすぎ、後の土壁は大きすぎたためです。新たな城壁のための基礎が選定され、翌年6月に起工しました。古い土壁を除き、新たな城壁の全長は八百六十丈、高さ一丈五尺、深さ一丈六尺で、レンガと石で造られ、上部には石の鋸壁が設けられることになりました。この城壁の4か所には二階建ての城門楼が築かれ、上は見張り台、下は基部という造りになっていました。また、それぞれの城門は、東門は迎曦門、西門は挹爽門、南門は歌薰門、北門は拱宸門と名が付けられ、城門内には、貯蔵室、砲台、貯水池などの設備があり、城壁の外には幅八尺、深さ七尺の堀が掘られ、この堀には通行のために吊り橋が懸けられました。すべての工事には2年が費やされました。
 
  1875年(光緒元年)、行政変更があり、淡水庁が廃止されて新竹県が新設、町の名前も竹塹から新竹に変更されました。日本による統治が始まると、都市計画が実施され、1902年(明治35年)には、城壁と城楼が撤去されて、唯一東門だけが残されました。1935年(昭和10年)には、迎曦門は史蹟に指定され、1985年にも再び内政部により第二級古蹟との指定を受け、今日まで保存されています。
 
建物の特色
  城楼は都市の玄関ですから、意匠を凝らした建設が行われます。まずその位置と方向について、風水師にお伺いが立てられます。そのため、必ずしも四つの門が真っ直ぐ東西南北に向いているとは限らず、新竹の城壁が正にその一例です。城楼の下部は「城座」と呼ばれます。東門の城座は長い花崗岩を積上げたもので、入口はアーチ型構造になっていますが、石を縦方向に積み上げたアーチで、中間の一部でアーチが途切れ、扉を装着し易いように門軸石が用いられています。分厚い木の扉には鉄片が打ち付けられ、火攻めに耐えられるようになっており、扉後方の両側には、扉を固定するための横木を嵌め込む穴が設けられています。
 
  城楼には様々な形式がありますが、竹塹城壁の城楼は幅3面(柱4本)、内柱は8本、外側には12本の柱に支えられたポーチがせり出しています。その四隅にはさらに角柱が加えられ、柱は全部で24本となっています。屋根は「歇山重簷式」と呼ばれ、両側に急にせり上がる構造は、無骨で力強い雰囲気を醸しています。木造部分も「斗拱」と呼ばれる正式な工法が用いられ、梁上の円形装飾もシンプルで、不必要な装飾はすべて省略されています。これら木造部分は、残念なことに改装の際にコンクリート製に取り換えられました。
来場者数:17342 人は、日付:2017-03-16