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鄭用錫の物語 |
鄭用錫の字(あざな)は在中、号は祉亭と呼ばれていました。原籍地は福建省の浯江(金門)で、祖父である鄭国唐は1775年(乾隆40年)に息子の崇和を伴って台湾にやって来ました。最初は苗栗県の後竜に住んでいましたが、後に崇和は家族を連れて竹塹に移転しました。用錫は崇和の次男で1788年(乾隆53年)に生まれました。幼い頃から聡明で、1810年(嘉慶15年)一回の試験だけで秀才に合格、彰化県学附生となり、1818年には恩科挙人に、1823年(道光3年)には進士となりました。鄭は台湾本籍で北京まで試験に赴いた初めての進士となったため、「開台進士」または「開台黄甲」と呼ばれるようになりました。
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鄭用錫は、史書の造詣が深く、易経にも精通していたため、明志書院で教鞭を8年執り、多くの子弟を採用することもしました。さらに、『淡水庁志初稿』の執筆も手掛けました。これは刊行には至りませんでしたが、陳培桂の『淡水庁志』の稿本となりました。
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学問上の功績だけでなく、鄭用錫は公益活動にも熱心で、竹塹(新竹の旧名)で行われたあらゆる公共事業に参加しました。1816年(嘉慶21年)年には文廟(現在の孔子廟)の建設を提案、1827年(道光7年)には、竹塹の城壁整備請願の中心となり、その許可を得、林国華、林祥麟などと共に工事総責任者として、経済面でも労働力の点でも建設に尽力し、ついに竹塹の城壁が完成しました。
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新竹の城壁建設の功績により、「同知」の官職を賜った鄭は、その後、北京での「籤分兵部武選司」「礼部鋳印局員外郎」などの職も授けられました。1837年(道光17年)、公職に疲れた鄭は、老いた母親の世話を理由に官職を辞し、新竹に帰り、翌年、北門街にある進士第を建て、読書と著作の自適の生活を送るようになりました。
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鄭用錫は、治安や国防にも心を砕きました。中国と英国間のアヘン戦争が1842年(道光22年)に起こると、英国艦船が大安港を脅かすようになりましたが、鄭は義勇隊を組織して救援に赴いた功労を称えられ、花翎(高官が帽子に付ける頭飾り)を賜りました。また土地公港で外国艦船を拿捕した功績により、四品の官位も授けられました。1853年(咸豊3年)には淡北で福建系移民と広東系移民との間で暴力事件に至る紛争が生じましたが、鄭は「勧和論」を著し、これを石碑として後竜に建て、動乱の鎮静に努めました。翌年には、民兵の組織や天津の食糧不足のために糧食を寄付した功績により、二品の官位を賜り、二代にわたる特権も保証されました。父親と並んで二品の官位を授けられた鄭用錫は淡北の誇りだったのです。
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鄭は晩年に接客と憩いの場として北郭園を建てました。これは3年をかけて1851年(咸豊元年)に完成し、潜園と並んで竹塹の二大名園となりました。また詩を愛する友人と同好会「斯盛社」を立ち上げ、竹塹に文学の息吹を伝えました。残されているその著作には、「北郭園全集」、文選一巻、詩選五巻、制芸および試帖(いずれも科挙試験の答案)各二巻があります。鄭には如松、如梁、如材の3人の息子があり、それぞれ大成しました。1858年(咸豊8年)、鄭用錫は享年71歳の人生を終えました。
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建物の特色 |
鄭用錫は1838年に、正面に表向きに3面(柱4本)、内部に5棟ある邸宅を建造し、門の上に「進士第」との扁額を掛けました。残念ながら、第二次世界大戦の際に、後部の3棟は焼失してしまい、現在残っているのは、前部の2棟のみです。
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当時、功績のあった者や地位のある者の住宅は、一般人とは異なっていました。そのような住宅はほとんどが「四合院」でした。入口の次の間は、駕籠係の住居と駕籠置き場となっていました。さらに玄関に旗を立てる台が一対置かれていました。そして、玄関上部には「文魁」または「進士」の扁額が掛けられていました。進士第はこれらすべての特色を備えています。入口の間取りが特に大きく、旗立台と扁額のいずれもその地位を誇示しています。旗立台は鄭氏家廟の前に置かれています。残念ながら、初期の「進士第」扁額は失われてしまい、今掛けられているのはレプリカです。
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その社会的地位の特殊性のゆえに、鄭家の建築構造と入口の装飾には大きな特色があります。進士第のポーチの両側には、精巧なレンガ彫刻を施した壁に彫刻石版が嵌め込まれているのが見えます。長年の風雨にさらされてはいますが、その精緻さは人の目を奪います。木彫りの「鰲」(おおがめ)と両側の獅子型の屋根支えも精巧この上なく、まるで生きているかのようです。右側にある石に彫られた文字は、高い芸術的価値を持っています。正庁(中央棟)の格子戸にも古色蒼然とした彫刻が彫られていますが、下部には万字模様があしらわれ、上部には詩や富や平安を表わす彫刻が施されています。これらも卓越した芸術品で、見る者に感動を与えます。
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進士第は配置の面でも建築技術の点でも芸術品とも言える建築物で、大きな文化的価値を持つものです。左にある春官第も鄭氏住宅の一部です。さらに横にある「吉利第」は鄭家の商号です。この建物は進士第と同じ建造物で、金門の工匠の手によるものです。これら建築の屋根両側の曲線は、台湾の他の伝統建築と異なり、緩やかな曲線を多用しており、一味違った味わいを醸し出しています。 |