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歴史と沿革 |
清朝の乾隆年間、竹塹市街は徐々に発展してきました。竹塹城北門から西北の城外への頭前渓河口旧港は中国大陸との貿易取引において必ず通過するルートでした。商人たちは皆この場所を通るため、様々な店が北門口に集まり、魚市場、米市場、薪炭などの生活用品が自然とこの地に集まり、次第に商業の中心地となっていきました。1742(乾隆7)年、淡水庁の同治である荘年、守備の陳士挺は竹塹北廂に媽祖廟である長和宮を建立することを提唱しました。後に廟は北門外に建てられたため「外媽祖廟」と呼ばれ、城内の「内媽祖廟」と区別されました。
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長和宮の建立は新竹地区の商業組合である郊と密接な関係があります。1819(嘉慶24)年、郊の加入商家が共同して再修築を行い、1866(同治5)年に再び郊に加入している商家が共同出資して再修築を行いました。初期の竹塹の郊に属する商家の規模はいずれも大きくなく、「郊」として組織されていない組合でした。嘉慶年間には神明会(講社に相当)に類似する組織があり、1828(道光8)年に正式に郊として組織され「金長和」と称して「長和郊」と略称されていました。これは海運業者の組合の一つで、加入した年代の区分に応じて老抽分、中抽分、新抽分の3種類に分かれ、併せて三抽分と呼ばれ、塹郊の特色の一つとなっています。これらの郊商は近くて便利な長和宮を会議の場として使ったことから長和宮は塹郊の会館となりました。また廟に祀られている媽祖と水仙尊王はともに航海の神であることから、その重要性がより一層高まり、各郊商の信仰の中心となりました。竹塹の郊商は地元の公益事業に熱心に参加し、当時の竹塹の発展にたいへん大きな影響力を持ち、また竹塹において長和宮が占める重要な位置も目立っていました。
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祭神 |
長和宮が祀っている媽祖神像は湄州媽祖の祖廟から勧請したもので桃園、新竹、苗栗地区で最も初期の媽祖でもあります。廟の名称「長和」は船頭業者が長く提携して平和的に共生するという意味があります。元々後殿には水仙尊王が祀られていました。この神と媽祖はいずれも航海の神であり、行き来する船の安全が祈られていました。1863(同治2)年になると新竹は北台湾の中心となり、参拝客が多くなり当初祀られていた航海神では人々の需要を満たせなくなっていたため、長和宮の左側に水仙宮を建立して水仙尊王を祀り、後殿に観音菩薩を祀って竹安寺と称し、多くの神がともに祀られる場となりました。
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建物の特色 |
秒建築の間取りは整っています。これは神をまつる場所なので建物の各部分には長さの規範があり、おろそかにできないからです。通常、廟の空間は「殿」で区分します。殿は跳ね上がった斜めの屋根をもっています。長和宮は三殿式の廟であり、前方から入ってそれぞれ三川殿、正殿と後殿の3つの部分からなっています。建物全体の正面は人々が廟に入る際の緩衝空間となっており、通常は中央に天公炉が置かれており、祭祀空間の1か所でもあります。三川殿は正面にあたるため、各部位の装飾は工夫が凝らされており、三川歩口(廟の門へと進む台)の龍柱、石獅子、木製支柱、彩色門神やそれぞれの門の石の彫刻はすべてじっくり鑑賞する価値があります。特に入口の石獅子は朴訥で可愛げがあります。麒麟壁の麒麟は放射状の巻き毛があり、足は4つの宝を踏みしめており、吉祥の象徴です。
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正殿は主神を祀っている場所ですが、通常は最も広い空間で、屋根は3つの殿の中で最も高く、屋根の面も最も広く、装飾も最も豊かであり、その最も尊い位を象徴しています。三川殿から正殿に進む際に中庭を通って階段を上って正殿に入ります。その際頭をあげてみると「霖雨蒼生」、「徳可配天」などの扁額が見えます。いずれもかなり以前の年代のもので、歴史を証しする重要な文化財です。後殿は静かな空間です。そのため屋根の高さ、空間の形式、基礎と装飾はいずれも正殿と比べると壮大さや豊かさはありません。 |