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歴史と変遷 |
蘇氏節孝坊は、1880(光緒6)年に作られ、湳雅街に位置しています。これは呉国步の妻である蘇氏をたたえるために建てられたもので、市街地から離れた場所にあったので、最も完全な状態で保存されています。
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呉国步は、淡水庁の儒士例で文林郎の役職にありました。淡水庁のレンガや城壁の修繕を提案した士紳のひとりで、残念なことに若くして早逝しました。その妻である蘇氏は、29歳で寡婦となり、夫の後を追って殉死しようとしましたが、幼子のために思いとどまり、その後寡婦を貫きました。
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資料上、蘇氏に関する詳細な記載はありませんが、蘇氏の息子である呉士敬が母親の教育の下、頭角を現し輝かしい活躍をしました。呉士敬は字を以讓、号を謹斎といい、軍功によって侯選訓導なり、1870(同治9)年庚午に科挙に合格し、後に加えて内侯選内閣中書となった新竹の重要な学問型の指導者であり名士となりました。礼部にその徳を評され「性成孝友、古道昭人(孝行者で親しみやすく、すばらしい人物)」とたたえられ、呉家の母の貞節と子の孝行の功績は、美談として語り継がれています。
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建物の特色 |
蘇氏節孝坊は、四柱三間三層の構造で、泉州の花崗岩と青斗石を使い作られています。造りは楊氏節孝坊と似ていますが、それよりもやや高く、優美に佇んでいます。構造上、中柱と両脇の柱を長くし、一番上の層の石のひさしの下に梁を加え、屋根の高さを抑えることで、見る人に透かし彫りの視覚効果により、牌がより大きく立派に見えるようになっています。
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彫刻は、上下に分かれており、2つの鴟尾(しび)、ひさし、聖旨牌(額)、4つの獅子、真ん中の貫や透かし彫りの人物など、さらに明間大枋の表面には4匹の龍が宝珠を争う様子、裏面の双龍双鳳の吉祥の彫刻、左右の次間の麒麟は透かし彫りの技法で彫られています。枋上には琴棋書画が彫られ、構図もすばらしく、どれも芸術的価値があります。
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牌の文字は、聖旨牌の下の中央の石額には「母節子孝」の4文字が刻まれており、下の石額には孝行をたたえる対象である旨が刻まれ、その正面の明間には対の聯句で「持節本家風、廿九歳操凜松筠、白華志潔」「褒旌昭国典、四十年名成荻教、丹陛恩綸」と29歳から40年間の貞節をたたえる内容が書かれ、蘇氏が40年以上貞節を守り通したその崇高さたたえ、後ろの次間の対の聯句は「歴七旬翼燕和熊、所天默鑒蓮心苦」「看二子経文緯武、怎地漸嘗蔗境甘」70歳まで長年苦労して貞節を守り、二人の子供(士梅、士敬)が抜きに出た活躍をするのを見ることができたことは、喜びであったろう、苦みから甘み(苦しみから喜び)が訪れたと書かれている。 |