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歴史と変遷 |
1885年(光緒11年)に台湾は省に格上げされました。第一代巡撫の劉銘伝は海防、開発、運輸上の必要から、1887年に清の朝廷に台湾での鉄道建設を上奏し、同年夏に工事が始まりました。最初に着手したのは、台北府から基隆に至る全長28.6キロの部分で、1891年(光緒17年)11月に正式に開通しました。続いて台北から新竹までの工事が始まり、1893年(光緒19年)には基隆-新竹鉄道が竣工、新竹駅が枕頭山の麓に建設されました。これは今のガラス工芸美術館のある場所にあたります。
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日本統治の初期、日本総督府臨時鉄道隊は、清朝が建設した鉄道路線が不必要に蛇行しており、設計も良くないとし、旧路線の改修に乗り出しました。これが現在の基隆-新竹間の路線です。新竹駅は当時、新竹停車場と呼ばれ、木造の小さな駅でした。1908年(明治41年)、新たな鉄道が開通すると、新駅舎の建設が急務となりました。設計の責任は総督府鉄道部の建築技師、松崎万長が担うことになり、新たな駅舎は1913年(大正2年)に完成、これが今の新竹駅です。このように、歴史的価値を持つ新竹駅は、一般民衆の記憶とともに歴史の一部となっています。
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建築技師、松崎万長 |
新竹駅の設計者は、当時総督府鉄道部に勤務していた松崎万長でした。松崎は鉄道旅館や基隆駅などの設計も担当していますが、謎に満ちた人物で、一説には天皇の落し胤とも言われています。孝明天皇の侍従長、哲長卿の養子となり、子供の頃には何度も天皇に謁見し、その寵愛を受けています。1867年(日本の慶応3年)天皇が崩御されると、領地と爵位を拝領します。明治天皇が皇位を継承すると、近代化が推し進められ、松崎はヨーロッパに派遣され、ドイツで留学することになります。ベルリン工科大学で建築学を学んだ松崎は、帰国後、皇居の栄造を担当した後、官職を辞し、一般の建築技師となります。1894年(明治27年)年、故あって爵位を放棄し、1907年(明治40年)に台湾にやって来ます。総督府から非公式の「嘱託」の職を与えられますが、二年後に離職、再び一般人の身となりますが、その後は時々設計業務を受託するのみで、生活は苦しかったようです。1920年(大正9年)に日本に帰国し、翌年に病死しています。
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建物の特色 |
松崎がドイツに留学していた当時のドイツは、後期ルネッサンスの建築様式の時代でした。これは古典的な様式をゴシック建築の赤レンガによる建築様式と結合したもので、ドイツ特有の味わいを持つ建築様式です。この様式にバロックの風格が加わり、高くそびえる屋根と屋根窓が特色となっています。また、壁と壁の交わる角や開口部周囲などに応力を集中させる構造を採用しているため、石造りの重層感を醸しており、建築物全体は華やかでなおかつ重厚感と厳粛性を保つ、特殊な風格を持つ建築となっています。
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新竹駅をじっくり観察すると、完全な対称建築物とはなっていないことに気付かれることでしょう。入口と鐘楼の位置は一方に偏っています。これは設計者が町の構造に合わせて設計したからです。ランドマークとなる鐘楼が中正路に真っ直ぐに向き、駅が都市の中心的ランドマークになるように配置した結果なのです。こうして新竹の玄関となった新竹駅には、設計者の細やかな配慮が反映されています。
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駅舎の裝飾に目を向けると、入口には突き出た山なりの壁とアーチ道が設けられ、堂々たる風格を表しています。アーチ道は二本の柱に支えられ、内側にも円形の短柱が配されています。庇の複雑な飾帯が半円形アーチを装飾し、アーチの中心石が目を引きます。外側にはどっしりした角形柱が建てられ、バロック風格を持つ独特の入口となっています。正面の庇の水平ラインは、中央になるほど高くそびえる鐘楼を支えるように高くなっており、本来なら屋上に置かれる屋根窓が、アクセントとして山型の鋸状装飾となっています。こうして、華やかではありますが、全体として落ち着いた雰囲気を醸し出すよう配慮されています。外部のアーチ型窓、改札口の上の山型壁、二本式の壁柱など、すべてに西洋建築を取り入れようと努力した跡が見られます。これらは皆、謎に満ちた建築家が後世に伝える代表的な作品と言えましょう。 |