新竹関帝廟

*新竹関帝廟
*市指定遺跡
*新竹市南門街109-1号
 
歴史と変遷
  新竹関帝廟は1776(乾隆41)年に建立されました。当時の淡水庁同知である王右弼が建立を提唱し、翌年2月に竣工しました。当時、清朝は民間信仰の力を利用して、当地権力を強化しており、人々に関聖帝君の信仰を奨励し、かつての烈士や賢者を表彰して、間接的に人々に忠義と愛国心の教化を行い、政府は廟の建設を進めていました。1871(同治10)年、淡水庁同治の周武濂は関帝廟が荒れ果てているのを見ましたが、当時の国庫は空で公費から支出はできませんでした。そのため現地の人々から寄付を募って同年に修築を完成させました。1895(明治28)年の日本軍台湾占領初期、本廟は陸軍憲兵隊の駐屯所として使われ、1898(明治31)年に返還されてから祭祀が復活しました。第二次大戦中、廟は接収されて国有となり、神像は竹蓮寺に集められました。廟の資産は地元民に売却されて私有地となりました。日本統治の終了後、張式穀、張克縄らが廟に土地を寄進し、1947年には地元住民が寄付を募り、改めて修築されました。1952年に竣工して関聖帝君を迎え、文昌帝君を合祀しました。1967年に再度修築して今日みられる姿となりました。
 
建物の特色
  本廟は主神を関聖帝君またの名を関公、関帝爺、武聖公とも呼ばれています。元の名は関羽、字を雲長といい、山西の解州の出身です。関羽は三国時代蜀国の大将で戦に強く、しかも高い品格と徳を持ち「仁、義、礼、智、信」をすべて具えていました。関羽が亡くなってから蜀漢後主は「壮繆」という諱を贈り、荊州の人々は関羽のために廟を建立して祀り、唐、宋時代の後、統治者は関羽を大いに崇めて位を多く与えました。またその後道教では関羽のことを「蕩魔真君」、「伏魔大帝」と尊ばれました。仏教でも関帝を護法の神である「伽藍」の神として祀り、民間信仰における重要な神となりました。台湾の日本統治終了以降、中国と台湾の敵対状況の影響から政治的に文武両道が特に提唱される気風が高まり、1976年の岳飛の873年目の生誕の際、当時の行政院長蒋経国は岳飛の忠を尽くして国に報いる精神を学び、「還我河山(故郷を取り戻す)」任務を完了するよう各界に呼びかけました。そこで廟は1977年に鄂王岳飛の神像と武成王、そして歴代の武廟に祀られている神々を追加して祀り、廟の名を「武聖廟」と変更しました。これにより関帝廟の地位は忠義の精神を尊び敬う民間信仰から、教化し武功を表彰する武聖廟となりました。廟内の何應欽、陳立夫、倪文亞、谷正綱らが寄贈した扁額によってこの廟の政治的色彩を見ることができます。しかし、現在廟の名は再び「関帝廟」に戻り、その政府による廟という特徴は薄れています。
 
  今日見られる関帝廟は1952年に再修築されたものと後に修繕された結果のものです。本廟は三殿を擁する大型廟です。正面は3開間(伝統建築において幅を表す単位)あります。中央は大殿であり、主神を祀る空間です。後殿は文昌殿ともいい、文昌帝君を祀っています。廟の前方には舞台があり「忠義台」といい、奉納劇を演ずる場所です。その脇には「武将祠」という小さい廟があり、関帝爺の愛馬「赤兎馬」を祀っています。
 
  本廟の外観は一般の廟と似ていますが、細部を観察すると多くの違いがあることが分かります。特に三川殿の牌楼面は各部分に鮮やかかつ細やかな装飾がされており、注意深く観察する価値があります。三川殿の回廊入口の柱は一般の廟で見られる龍ではありません。両側の龍虎壁も装飾は多くなく、廟の荘厳さと厳粛さを際立たせておいり、一般の廟のような華やかさはありません。
 
   廟の門はその他の廟と異なり門に門神が描かれていないだけではなく、門の釘が突き出ています。門釘はは本来門の板の釘の頭を隠すものですがのちに象徴性を持つ装飾物へと変化しました。清朝時代には宮殿や孔子廟、武廟でのみこのような形式の門が使用できました。このことからも本廟の官制廟の性質が見て取れます。
 
  装飾は多くありませんが、職人の技が木彫りに表現されています。正門両側の麒麟壁にある蛟虎炉木彫りと門に刻まれた福、禄、寿、喜等の字から木彫り職人がたいへん高い芸術的水準を持っていることがうかがえます。大木構造の獅子斗座、雀替、蛟虎アーチ、垂花、そして梁の間の獅子、獅球、カボチャ、果物などの木彫りの技の精緻さ、配置と題材はどれも目を見張るようなものばかりです。獅子斗座の裏には1匹のカニが彫られています。これはうまくできた組み合わせで、科甲(科挙)を象徴する意味を持っています。特に吊筒(垂花)の建材に刻まれた飛天の彫像は素晴らしい姿をしています。
来場者数:16271 人は、日付:2016-07-05