新竹水仙宮

*新竹水仙宮
*市指定遺跡
*新竹市北門街135号
 
歴史と変遷
  水仙宮または水仙王宮と呼ばれ、外媽祖廟長和宮の左に位置しています。真ん中を風が通る細い通路で隔てられ、水仙尊王をご神体として祀っています。この水仙尊王は元々は長和宮後殿に新竹北門地区の郊商(当時の貿易商)が航海の安全祈願に祀ったものでした。しかし街が発展し北門地区の人口も増加したことから、航海の安全祈願だけでは人々の要求に応え切れず、また長和宮後殿も手狭だったこともあり1863(同治2)年に商店(老抽分…廟活動に係わる団体)が共同で出資して長和宮の左側の店を解体し水仙王殿を建て水仙尊王を祀ったのです。1866(同治5)年竣工。この廟は日本統治時代にも修繕されたのでしょうが記録には残っておらず、光復(日本統治からの開放)後に部分的な修繕がなされました。1978年に興った復興中華文化運動に呼応して新たに文昌帝君を祀ったため、長和宮と水仙宮は儒・道・仏教一体の信仰の場となったのです。
 
ご神体
  長この廟のご神体である水仙尊王は、夏禹(かう)つまり夏代開国君主でした。尭(ぎょう)が帝だった時代、治水事業に失敗した父を舜(しゅん)帝に殺害された禹は自分が父の事業を継ぎ、13年の歳月をかけ河の流れを誘導する方法で洪水を治めることに成功しました。「家庭を顧みず治水に没頭した」と言われる程の働き振りから、舜帝は血縁でない禹に帝位を譲り君主の地位に就かせたのです。国名の夏を取り夏禹と呼ばれています。新竹水仙宮は禹帝を単独で祀っており、他の四柱の水仙(伍子胥・屈原・王勃・李白)は本廟の特別な場所に安置されています。
 
  毎年旧暦10月10日には水仙尊王の生誕を祝い本廟で盛大な祝典が開かれます。
 
建物の特色
  水仙宮は一棟二殿二廊造りの廟です。長和宮より少し奥まった場所にあり間口は長和宮より少し小さめ、2つの廟の間には細い路地が通っていて員光門で繋がっています。長和宮と一体だと言ってもいいでしょう。
 
  水仙宮の建物全体は長和宮によく似ています。恐らく同じ匠が手掛けたためでしょうが、細かな部分では多くの相違点があります。水仙宮三川殿の歩口(屋根つき廊下)は広くありません。歩口の簷柱(一番外側の柱)は四角い石柱で「決漢疏河功敷四海・成天平地祀享千秋」という対聯(対になった書)が刻まれ、水仙尊王の功績を記しています;特殊な物として、書籍形式になっている歩口の員光(屋根の梁の一番下の横板)があります。歩口の通梁の上には獅座があり、獅子や束随(飾り梁)の彫刻の滑らかな曲線から匠の優れた腕前が見て取れます。水仙宮の正門は石鼓(太鼓形の石)を門枕石(門柱を押さえる対石)にしており、長和宮の石獅子とは異なっています;牌楼(中国式門の1つ)は五連のアーチ型で中央に「水仙宮」の廟名が配されています;三川殿の前後で対になるよう配された大きな木の骨組みは余り見られない工法です。
 
  水仙宮正殿は十一架梁と言われるもので、その構造は長和宮と似ています。四点金柱(室内の最も重要な四本柱)に渡っている大きな木の骨組みは二通三瓜というもので、大通の通随は大通と同じ長さの員光です。全体的に彫刻装飾は多くありません。
 
  水仙宮の左側にある外塀には三つの石碑があり、風雨を凌ぐための東屋が建てられています。その1つ「長和宮碑」は水仙王宮建立の記録であり、当時の新竹の主要な郊商(当時の貿易商)が献金者となっています。当廟に残る貴重な歴史資料です。
来場者数:15033 人は、日付:2016-07-05