新竹の沿革

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  竹塹:現代の研究の推論によると、「竹塹」は新竹平野に暮らす平埔族のタオカス族の「竹塹社」の音訳とされている。明永暦15年(1661)、左先鋒の楊祖に竹塹の駐屯を命じる。康熙57年(1718)、王世傑が族の民を率いて同安から竹塹埔を開墾し始め、これが漢人による竹塹開墾の始まりとなる。
 
  淡水庁:北部地域の開発が次第に進み、雍正元年(1723)、虎尾渓以北の沿岸防衛、理番と賊徒の逮捕等の治安事項を管理する支防庁として、淡水海防庁(淡防庁)が半線(彰化)に設立される。雍正九年、大甲渓以北地方の各事務項目が淡水庁同知によって管理され、淡水庁が属庁に改正される。二年後、淡水庁同知が竹塹へ「命を受けて移転駐在」し、竹塹は庁の管轄となる。
 
  新竹:淡水の開港後、中華と西洋が入り混じる地となり、台湾北部もまた日に日に繁栄し、淡水同知は「半年竹塹衙門に駐在し、半年艋舺公所に駐在する」といったように、慌しく奔走する状況であった。光緒元年(1875)、新たな対応のため、台湾の防衛を監督処分する沈葆禎が、淡水庁を撤廃し、新竹県、淡水県、また、台北府(淡水、新竹、宜蘭三県を統括)の増設を上奏。新竹県の範圍は北は頭重渓(現在の桃園社子渓)、南は大甲渓が境界で、竹塹から「竹」の字を取り、「新」の字を加えて新竹と命名した。これは、新たな竹塹城を意味し、竹塹城が県を統治。その後、竹塹城が次第に新竹城へと改名され、竹塹地区もまた新竹地区に改名された。
 
  竹塹城は北台湾で最も早く開発された都市で、かつて「竹塹城」、「淡水庁城」、「新竹城」の三つの名を経る。これは、異なる時代の行政管轄区の名称を反映。
 
  新竹市の建城の歴史は、雍正11年(1733)に城の為に竹を植えたことに始まり、その後、海賊からの防衛として土城が建設され、道光6年(1826)、台湾開拓の進士・鄭用錫が首領である竹塹士紳がレンガ城の建設を上申。道光9年(1829)に竣工し、整備された城廓となった。明治後期になると、相次いで城壁が取り壊され、1905年に「市区改正」が行われた後、東門だけが残された。
 
  日本統治時代、新竹は台北県新竹支庁(1895)、新竹県新竹辨務署(1897)、新竹庁(1901)、新竹州新竹郡新竹街(1920)と変遷。昭和5年(1930)、新竹街が市に昇格し、市役所が設置され、これが新竹市の始まりとなる。昭和16年(1941)に香山庄全体及び旧港、六家庄の一部を合併し、行政区域が拡大。下に25の区会を設置し、市政のサポートと普及を行った。
 
  1945年、台湾が国家を回復し、台湾行政長官公署新竹州接管委員会が、11月9日より元新竹州の機関の接収を始める。同月17日に新竹市役所を接収し、さらに新竹市政府を設立。接管委員会に隷属し、11月30日に元の各郡役所を接収。翌年1月、接管委員会が終了し、新竹県政府が設立され、一時元新竹州庁を借りて執務する。新竹県政府が2月28日に桃園へ移り、また、新竹巿は全省の行政区域の調整により、正式に省轄巿を設置し、新竹巿政府を設立。下に東、西、南、北、竹東、宝山、香山等の七箇所の区役所を設置し、元州庁事務局に移った。当時、全省に5大県、3小県、9省轄巿の計17県巿を設置。
 
  1950年10月25日、台湾省政府は『台湾省地方自治実施要綱』に基づき、全省の行政区域を調整し、改めて21県巿を設置。元大新竹県を分割し、桃園、新竹、苗栗の三県を設置。新竹地方は元省轄の新竹市と元新竹県管轄の関西、新埔両鎮、湖口、紅毛、竹北、横山、芎林、北埔、峨眉等七郷及び尖石、五峰両山地郷等を合併して新竹県を設立し、県治が新竹巿に設置される。
 
  1951年12月1日、元東、西、南、北等の四区を合併して県轄巿を設立。新竹巿役所が中正路の元東区区役所に置かれ、1955年夏に林森路の元県立中学(旧孔廟)に移り、執務が行われる。1982年6月に総統の1982年6月10日(七一)台統(一)義第三四四一号電報公文書を受け、1982年7月1日より、元々新竹県に属していた香山郷を県轄新竹巿に併合し、省轄巿へ昇格することが認められ、省轄巿の新竹巿政府が1982年7月1日に正式に成立。1990年11月1日、新竹市の下に東、北、香山の三箇所の区役所が設置され、正式に区ごとの執務管理が行われる。
 
新竹市州庁のかつての姿
▲新竹市州庁のかつての姿
日本統治時代の空撮写真(写真提供元:竹塹風華)
▲日本統治時代の空撮写真(写真提供元:竹塹風華)
来場者数:206720 人は、日付:2017-03-16