張氏節孝坊

*張氏節孝坊
*市指定遺跡
*新竹市国華街87号横
 
歴史と変遷
  張氏節孝坊は鄭用錦の妻、張棗娘を表彰するために建てられたものです。鄭用錦は1799年(嘉慶4年)に生まれた鄭崇和の三男で、鄭用錫の弟です。淡水庁学附生として1829年(道光9年)に亡くなった時には31歳でした。鄭用錦は1820年(嘉慶25年)に張棗娘を継室として迎えています。鄭用錦の亡き後、張氏は独力で3人の子供を育て上げました。その家族に対する忠孝の功労を称えるため、1867年 (同治6年)に「坊」すなわち記念碑を建てるよう推薦が行われ、1871年に湳雅万年橋の傍らに完成しました。
 
  鄭用錦の息子、如蘭は幼年にして父を失いましたが、張氏の下で成長し貢生となり、後には通奉大夫の官職も与えられました。如蘭は母に対する孝行は、1889年(光緒15年)に「孝友」として称えられました。その著作には偏遠堂詩集があります。
 
建物の特色
  張氏節孝坊は4本の柱からなる横三空間、縦に三層の石造りの「牌坊」(記念碑)です。建材として福建省・泉州の白石が使われ、青斗石の彫刻がなされており、牌坊としては貴重で価値のあるものです。張氏節孝坊の造形は新竹の他の牌坊とは異なり、全体的に見ると他の牌より低いものの横に広く、重厚な安定感があります。特に一、二層の末端には突起があり、滴水瓦の彫刻が彫られているだけでなく、末端も跳ね上がるように造られているのが、他の牌坊との最大の違いになっています。
 
  彫刻に目を向けると、上から順に、2基の鴟尾、石檐、聖旨牌、石獅,中枋、人物などが彫られています。正面中央の空間には4匹の竜が珠を奪い合う図もあれば、その左と右には透かし彫りの麒麟もあります。四大芸術のモチーフや構図の比率など、すべて芸術的価値を備えるものばかりです。
 
  牌坊に彫られた文字を見ると、聖旨牌の下方中央の石扁には「天旌節孝」の四文字が見られます。正面の中央空間の両側には「苦節堅貞、四十載矢志柏舟、橫溪流潔」、「恩綸獎錫、千百年垂芳彤管、瀛嶠風清」と対をなす語が刻まれています。これは張氏が節操を守った四十年の辛苦を称えるもので、節操を守るという行為が百年、千年と讃えらえると考えられた当時の社会的価値観を物語るものです。
来場者数:15247 人は、日付:2016-07-05