康樂段防空要塞

康樂段防空要塞
市指定遺跡
新竹市東大路参段335巷42号横
 
  新竹海軍飛行場は日本統治時代の1937(昭和12)年に建設されました。当時「新竹の穀倉」と呼ばれた吉羊崙庄、沙崙庄、崙仔庄、竹囲などの集落があった約470ヘクタールの土地が徴用されることになりました。元の住民たちは、飛行場付近に移転させられることになり、それは、今の成功路、延平路二段虎山などのエリアに当たります。飛行場は、自国の航空機の発着用として用いられましたが、安全を図るために、周囲に防空要塞が設けられました。この要塞は、ドイツが第一次世界大戦の時期にフランス北東部で築いた長大なヒンデンブルク防御線に倣い、エリアに分けた防衛という概念を取りこんだもので、複数の要塞が一エリアを構成し、さらに複数のエリアが一防御システムを構成するというものでした。文献によれば、新竹海軍飛行場のために設けられた要塞は、南十八尖山に18、香山に13、南寮と槺榔に10、楊寮に28、合計69ありました。
 
  1941(昭和16)年10月1日、当時の日本軍は「北台空新竹基地」を設置しました。1941(昭和16)年12月の真珠湾の奇襲成功後、制空権の確保と戦闘機用燃料の確保のために、台湾はますます重要度を増していきました。台湾は、日本本土と南洋の中継点であり、新竹は中国大陸に最も近い位置にあったため、防衛上重要視され、陸、海、空の部隊が配属されることになりました。神風特攻隊(桜花特攻機部隊)の本部も新竹に置かれるようになりました。支援施設としては、南進の給油地として、第六海軍燃料廠新竹支廠、第六燃料廠化学工廠、海軍第六燃料廠油庫が新竹に設置され、その重要度は高まりました。第二次大戦中には、新竹市は連合国の空襲に遭い、投下された弾薬量は23,402トンと、台湾で最大の被害を受けた都市となりました。このように新竹の戦略的地位は高く、第二次大戦後に中華民国に接取された後も、同飛行場は、新竹空軍基地として用いられることとなりました。
 
  建造物は上が小さく下が大きい釣鐘型で、コンクリートの4階構造となっています。高さは8.99 メートル(図20)で、各階には細長い長方形ののぞき窓があります(図21)。壁厚は約0.9メートルあり、高射砲の設置や機関砲による攻撃にも耐え得るものでした。要塞の屋上には屋根がなく、砲台用となっています。使用されている石は、砕石ではなく、頭前溪から採掘された粗い自然石です。
来場者数:16274 人は、日付:2021-05-26