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市指定遺跡辛志平校長故居

*辛志平校長故居
*市指定遺跡
*新竹市東門街32号
 
歴史と変遷
  辛志平校長の故居は、日本統治時代の新竹中学校付属の校長宿舎で、日本統治時代の初代校長である大木俊九郎によって建てられ、新竹中学校創立以来、この建物は歴代の校長の宿舎でした。現在、創建年代が明記されている文献資料はありませんが、新竹中学校の変遷から推測するに、辛公館の創建年代は、大正11年(西暦1922年)、新竹中学校とほぼ同時期に建てられたと考えられています。新竹中学校は後に十八尖山の麓に移り、元の場所は新竹女子中学校が使用していましたが校長宿舎は移転せずそのまま残ったため、今も新竹女女子中学校の脇にあります。
 
  辛志平は、広東省羅定の人で、国立中山大学の教育学部を卒業後、広東防城県立鄉村師範や中山大学などで教師として働きました。第二次世界大戦末期、湯恩伯総司令部で長年軍職にありましたが、日本が降伏すると、辛志平校長は退役を申し出、日本人が台湾で行った植民地教育から中華民国の教育へ変えようと台湾へ来て新竹中学を接収し、戦後初めての新竹中学校の校長となりました。辛校長は、民国34年に校長に就任してから、民国74年に亡くなるまでずっとここに住み続けました。
 
  1945年12月12日、辛校長の管理の下にあった新竹中学校区内の多くの日本軍キャンプを校長自ら学生を率いてキャンパスを整理し、建物の整備修復を行いました。また一方では教職員が深刻に不足していたため、自身も多くの課目を担当し、教育に当たりました。1949年以降、台湾にやってくる人が次第に増え、当時の国家財政は少なく不足していたため、校舎の不足問題を解決するため、校長は寄付や借入に奔走、学校経費をやりくりするなどの方法で、費用をねん出し、体育館・プール・図書館などを建設し、また宿舎を建てることで教職員と学生の生活を安定させました。新竹高校は、辛校長の下で、1本の草木からレンガや瓦まで、少しずつキャンパスを今の規模までに作り上げました。
 
建物の特色
  辛公館は、北側に南向きに建てられ、建物の四方を庭園に囲まれています。室内空間は、入り口に玄関と廊下を配し、リビングとサービススペースとして応接室・座敷・次の間・書斎・女中部屋・茶の間・台所・風呂・トイレ・洗面所・倉庫(西側)がある。そのうち、風呂・トイレ・洗面所は、建物の西北側にあり、座敷・次の間の北側には庭園を鑑賞するための縁側があります。
来場者数:16096 人は、日付:2016-07-05