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新竹市政府

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市指定遺跡新竹神社跡

*新竹神社跡
*市指定遺跡
*新竹市崧嶺路122号
 
歴史と変遷
  日本の神社体系は大きく2つに分類されます。1つは国家神道、もう1つは民間信仰。前者は日本政府が明治維新以降に国家政策として普及させたもので、新体制の国家が誕生したことを国民に深く印象付ける目的で推し進めた宗教政策です。国家神道なるものを作り上げそれを伝統とし、人々の心を導く確固たる存在として位置付けたのです;一方後者は日本古来から伝わる伝統的な信仰で自然崇拝の1つです。日本が台湾を統治すると、これらの信仰は日本人と共に台湾に入ってきました。日本政府はこの宗教の力を借りて統治を強化したのです。神社はそういった政策の産物です。国家主義の下構築された国家神道は神社という空間で表現され、天皇を神と崇めて人心をなだめる役割を果たしたのです。
 
  日本の国教―神道の中心的存在となった神社。そのご神体は主に天照大神(皇室の祖神)・天皇および皇族・国魂神(各地域の守り神)など、それはつまり天皇を神格化して崇めることで作り上げた神なのです。新竹神社のご神体は、かつて台湾に攻め入り殉職された北白川宮能久親王で、崧嶺山の中腹に建立されました。北白川宮能久親王が1895(明治28)年に兵を率いて新竹尖筆山に攻め入った際、この地に陣を張り駐屯したことから、「御遺跡地」として神社が建立されました。他に特別な意味はありません。
 
  新竹神社の建立は1915(大正4)年三村三平が新竹庁長だった時に始まり、その後、後任の高山仰が新竹神社建立事務所を立ち上げました。総督府技師森山松之助とその助手であった八阪志賀助・手島誠吾により設計、建築が行われました。初代新竹神社は1917(大正6)年に着工され、中門・拝殿・社務所・手水舎・鳥居などの施設と共に翌年竣工。1920(大正9)年には旧制度に於ける神社の社格の1つである「県社」に認定されています。
 
  1942(昭和17)年には社格が更に「国幣小社」に昇格。1936年以降に皇民化運動が高まると、植民者は国家神道を精神面での目的達成の手段として利用し、神社を教化の道具として規模を拡大してゆきました。1938年に二社目となる神社建立に着工し1940年に竣工しています。本殿の他、祝詞舎・神饌所・神楽殿・休憩所・齋館などの施設に加え参道・公衆トイレといった設備も整備されました。
 
建物の特色
  客雅山の麓に2社目の新竹神社が建立されました。設計者は新竹州内務部土木課建築技師の手島誠吾で、新竹神社を設計するために日本へ戻り65体の神社を見て回りました。それぞれの設計の優れた部分を活かして台湾の気候に合った神社を設計したため、新竹神社には日本にはない回廊・神門といった施設が設けられています。またそれぞれの空間が一続きになっているため儀式の最中に風雨の影響を受けることもありません。これは神社が台湾化し始めたということで、台湾の他の地域の神社建築にも影響を与えたと言えます。
 
  新竹神社は改築を繰り返し、今では2社目の神社跡に残る社務所と参道が見られるばかりとなりました。使用している材料は基本的な木材と石材。かつて台湾では貴重な木材が盛んに産出されていました。社務所本体も耐久性のある檜を使い、匠の優れた技で建立されたため長年の風雨にも耐え現存しているのです。屋根の「鬼瓦」と「懸魚(げぎょ)」の細工は美しく、かつての華やかで凝った作りがはっきりと見て取れます。社務所は台湾建築物の中で最大の物と言ってもよく、様々な儀式が盛んに行われていた様子が、また新竹州が政治的に重要な地位を占めていたことが窺えます。
 
  かつての中山路は州庁と神社を結ぶ主要道路でした。新竹で最も美しい街道でもあり、参拝で中山路から山に入ると、参道の両側には石灯籠が並び神社の荘厳で神聖な雰囲気が増してゆきます。知らず知らず人々は畏敬の念を抱かされ教化されてゆくのです。残念なことにこれらの施設は政権交代の後保存されることもなく、神社のあった場所は現在中国人民処理センターとなっているため一般公開されていません。私たちはこの場所を公園として開放し、この見知らぬ神道の殿堂を人々が身近に感じられる場所にしたいと願っています。
来場者数:17098 人は、日付:2016-07-05